テサロニケの信徒への手紙一1:8-10
更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。 (一テサロニケ1:10)
テサロニケ教会の信徒たちの信仰は、キリストの十字架と復活のみならず、キリストの再臨を待ち望むという点で際立った特徴がありました。キリストの再臨とは、復活して天に昇ったキリストが再びこの世に来られて最後の審判を行ってくださるということです。英語ではザ・セカンド・カミングといいます。キリストの再臨と最後の審判は、キリスト教の基本的な教えです。「日本キリスト教会信仰の告白」には、教会が「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」とあり、また「日本キリスト教会信仰の告白」が引用する使徒信条の部分には、キリストが天から来られて「生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されています。
それにもかかわらず、現代の日本のクリスチャンからは、キリストの再臨と最後の審判ということをあまり重要なこととして受け止めていないかのような発言を聞くことがあります。その理由を考えてみますと、第一に、将来キリストによる最後の審判があるということを強調すると、キリスト教がカルト宗教と同じようなものとみなされるおそれがあるからということでしょう。確かに、カルト宗教の中には、何年に世の終わりが来るというような迷信を唱えて、人々を惑わしたものがありました。また、第二に、世の終わりを強調して人々の不安を煽ってキリストを信じさせようとする伝道の仕方には、ある種の胡散臭さがつきまとうからでしょう。胡散臭いというのは、神様を畏れ敬うまことの敬虔さを養うというよりも、人々の恐怖を利用して信じる人々を増やそうという意図があるのではないか?ということです。ですから、キリストの再臨や最後の審判を一面的に強調するような教えに対して警戒をするということも、あながち理由のないことではありません。
しかし、キリストの再臨や最後の審判を信じなければ、たとえキリストの十字架と復活を信じていたとしても、そのような信仰は、キリスト教信仰の極めて浅いレベルにとどまることになってしまいます。つまり、キリストの十字架と復活ということが、あなたは救われましたという現在における気休めのようなレベルに終わってしまうということです。なぜなら、キリストの十字架と復活による救いが最終的に完全なものになるのは、キリストの再臨と最後の審判の時だからです。 (12月28日の説教より)