埼玉県志木市は、電車で池袋から20数分のところにある東京のベッドタウンです。江戸時代は農産物の集積地であった川越と大消費地の江戸を結ぶ舟運で栄えた町でした。川越から江戸へと流れる新河岸川には引又河岸(ひきまたかし)と呼ばれる船着場があり、引又は江戸時代から商業の町として大変にぎやかであったそうです。

そのため、キリスト教の伝道も早くから行われました。山本秀煌編『日本基督教会史』には、「遠からずして皆新教会設立の運に至るべし」(1887年の日本基督一致教会の第四回大会記録の引用)と考えられる伝道地の一つとして、「志木宿」という地名が記されています。しかし、一致教会や(旧)日本基督教会の志木伝道は残念ながら教会建設に至らずに終了しました。その経緯については、神山健吉「志木の黎明期のキリスト教について」『郷土志木』第18号(1989年)、細田信良「志木におけるプロテスタント伝道の流れ」『郷土志木』第46号(2017年)によって知ることができます。

第二次大戦後、日本キリスト教会の志木伝道が浦和教会の平田正夫牧師によって始められました。まず1962年4月27日に、会員の五味渕恭宅において家庭集会が行われました。次いで1965年4月、会員の松本光を園長として私立志木幼稚園が開園され、8月から集会が幼稚園園舎で行われるようになりました。そして、1974年4月14日のイースターから、毎週日曜日午後7時半に園舎で浦和教会の伝道所として主日礼拝がささげられるようになりました。平田正夫先生の語る御言は、率直で力強く、絶対の真理は復活の生けるキリストのみであるという信仰を教えられました。少人数ではありましたが、礼拝を守って継続することが私たちの使命であるという思いを与えられました。

1992年4月2日に東京中会の伝道所として「志木北伝道所」が開設され、浦和教会牧師の中家誠先生が兼任の牧師となりました。平田正夫先生は長期応援教師として1996年6月まで仕えてくださり、北川裕明先生の応援の時期を経て、1998年12月に三好明が牧師に就職しました。

三好牧師が就職した直後に、礼拝の場所であった幼稚園がまもなく閉園となるということが明らかになりました。牧師と委員会は土地を購入して教会堂を建築するための準備を始めました。そして、志木北の教会員と浦和教会はじめ近隣の諸教会と全国の日本キリスト教会諸教会から献金が献げられ、幼稚園跡地の一部103平米を購入して教会堂を建築し、2002年3月に献堂式を行いました。このとき現住陪餐会員は9名で、約3,000万円の返済すべき借入金がありました。2002年から2019年まで毎年、クリスチャンの演奏家を招いて音楽を用いた伝道集会を実施しました。礼拝に集った求道者の中から洗礼を受ける人たちが起こされました。日本キリスト教会の他教会からの転入者や他教派の教会からの入会者も与えられました。

礼拝後に「教会独立のための祈祷会」を行いました。その祈祷会の中では、独立教会の形成を目指す祈りとともに、教会員・客員・求道者の近況を覚えて執り成しの祈りをささげることに努めました。私たちは、世界宣教の歴史の中で、自給(セルフ・サポート)、自伝(セルフ・プロパゲイション)、自治(セルフ・ガバメント)を行う土着化した独立教会の形成を目指す宣教論があったことに注目し、この宣教論に基づいて学びを重ねました。2011年を最後にして近隣の諸教会からの指定献金を辞退し、それ以降は東京中会からの援助金も時間をかけて少しずつ減らしていただきました。それとともに「教会独立準備金」の献金をささげて、大会や中会に対する財政的責任を負えるようになるべく準備をしました。

教会の自治のためには、信仰共同体を治める長老を育てていかねばなりません。そこで、2010年から毎月の伝道所委員会において学びをしました。これまでに学んだテキストは、信仰と制度に関する委員会編『「日本キリスト教会信仰の告白」解説集』、桑原昭著『信仰の学校』、久野牧著『わたしたちの信仰(第三版)』、『日本キリスト教会小信仰問答(1964年版)』、『日本キリスト教会大信仰問答』、「現代日本の状況における教会と国家に関する指針」(1983年)、そして日本キリスト教会憲法・規則の一部です。

2023年6月18日には大会応援伝道として東京中会議長の真田泉先生をお招きして、主日礼拝と講演会「伝道所と独立教会について」を行いました。さらに、10月29日には南浦和教会の藤井和弘先生を議長として、臨時総会を開催しました。2024年3月の定期東京中会に「教会建設願い」を提出することと三好明を牧師として招聘すること等を満場一致で可決し、4名の長老となるべき人を選出しました。

(日本キリスト教会出版局『福音時報』2024年2月号掲載の原稿に加筆)