ペトロの手紙一1:3-9 「キリストの復活による希望」

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。(一ペトロ1:3-4)

人々は一生のうちのある特定の時期を「生き生きとした希望」をもって過ごします。つまり、学校や仕事や結婚や家庭に「生き生きとした希望」を抱くのです。ところが、人間を取り囲みまた人間の内にある罪と死の力によって、多くの人々は「生き生きとした希望」を次第に失っていきます。そして、この世の現実は自分が夢見ていたようなものではない、ということを思い知らされるのです。つまり、人間の現実はエゴイズムのぶつかり合いであるということを知らされます。そのような中で生きるためには他人を犠牲にしてずる賢く生きるか、それとも貝のように心を閉ざして身を守るしかないということを経験します。そのようにして、冷たく固まった心をもって毎日を過ごす人々も少なくないことでしょう。
なぜ希望が失望に変わるかということを考えてみますと、もともと抱いていた希望が根拠のないものだったからなのでしょう。根拠のないものだったと言うのは少し言い過ぎかもしれません。だれでもその人なりの根拠をもって将来の夢や希望を思い描いているのでしょう。人から教えられたこと、人から聞いたこと、自分の目で見たこと、本で読んだこと、そういうことを元にして、学校に行って学びたい、仕事をして成功したい、結婚をして幸せになりたい、家庭を築いて仲良く暮らしたいというような、希望を持って生きるのです。ところが、多くの人々がもっている希望の根拠が、実は非常に不確かで空しいものなのです。なぜなら、人は移り行くこの世のありさまから自分に都合の良い面だけを見て、自分もあのようになりたい、なれるに違いないと思い込むからです。ですから、自分が見ようとしなかった厳しい現実、つまり人間は罪と死の中で生きているのだという現実に出会うならば、希望が失望に変わってしまうのです。
ところが、聖書の教える「生き生きとした希望」は、変わることのない確かな根拠を持っています。その根拠とは、イエス・キリストの復活であります。約二千年前にイエス・キリストが十字架上で死んで三日目に復活したという事実こそが「生き生きとした希望」の根拠なのです。それではなぜ、イエス・キリストの復活が「生き生きとした希望」の根拠になるのでしょうか?それは、神様がキリストを信じる人を「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として」くださったからです。つまり、決して失望に終わることのない「生き生きとした希望」とは「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」という希望だということです。
(4月4日の説教より)