コリントの信徒への手紙二12:19-21

愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです。                (二コリント12:19)

この手紙は、表面的に読むとパウロが自分の指導の正しさを弁明している手紙のように思えるかもしれません。確かに、この手紙にはパウロの弁明という要素があります。しかし、パウロが自分の指導の正しさを弁明するのは、コリント教会の信徒たちを言い負かして自分に従わせようとしているということではありません。パウロはその指導によって信徒たちのクリスチャンとしての人格を造り上げ、また信仰の共同体としての教会を造り上げようとしているのです。そのことが「愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです」という言葉に凝縮されています。

「造り上げる」と翻訳されているオイコドメーというギリシア語は、家を建てることという意味の名詞です。ギリシア語でオイコスとは家のことで、パウロはこのオイコドメーという名詞やオイコドメオーという動詞を、クリスチャンの人格を「造り上げる」という意味や教会という共同体を「造り上げる」という意味で、しばしば用いています。たとえば、コリントの信徒への手紙一の8章1節に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とあります。愛がクリスチャンの人格を「造り上げる」ということです。また、コリントの信徒への手紙一の14章4節には「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」とあります。意味のわからない言葉を語る「異言」ではなく、神様のことを意味のわかる言葉で教える「預言」が、教会という共同体を「造り上げる」ということです。

聖書の教えでは、クリスチャンの人格を「造り上げる」ことと教会という共同体を「造り上げる」ことが、切り離すことのできないものとして結びつけられています。聖書によって神の言葉を聴き、祈りによって神に向かって語り、神と対話して生きることによって、クリスチャンの人格が造り上げられます。しかし、それは一人ですることではなく、共に神の言葉を聴き共に祈る、教会という共同体の交わりの中でなされることです。神との対話と教会の交わりは、一人の人に神を愛することとは何か、隣人を愛することとは何かを経験させてくれます。そして、一人の人の人格を、神を愛し隣人を愛する人格へと造り上げ、教会という共同体を、神を愛し隣人を愛する共同体へと造り上げていくのです。

(1月15日の説教より)