兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。

(二テサロニケ1:3)

テサロニケ教会の信徒たちは「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範」(一テサロニケ1:7)とまで言われる立派なクリスチャンたちでした。しかし、だからといって完全であったということではありませんでした。

この手紙を書く前に、パウロは、テサロニケの信徒の手紙一の3章10節で「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と記していました。「必要なもの」と翻訳されているヒュステレーマというギリシャ語には「不足」「欠乏」「欠点」という意味もあります。 そして、多くの英語や日本語の聖書は、この箇所ではむしろそちらのほうの意味であると考えています。英語の聖書では、この言葉は“what is lacking” (KJV、NASB、RSV、NIV 2011、ESV)、すなわち「欠けているもの」と翻訳されています 新しい日本語の聖書でも「足りないところ」(聖書協会共同訳)、「不足しているもの」(新改訳2017)などと翻訳されています。ですから、第一の手紙のこの箇所において、パウロは、テサロニケ教会の信徒たちの信仰にはなおも「欠けているもの」「足りないところ」があるということを、率直に指摘していたのでした。

その「欠けているもの」「足りないところ」が具体的に何であったのかということは、私たちにはわかりません。しかし、パウロがその「欠けているもの」「足りないところ」をいつも心にかけて祈りのうちに覚えていたのは確かです。そして、その後のテサロニケ教会の歩みを聞いたときに、パウロはそのような「欠けているもの」「足りないところ」が次第に補われ満たされてきたということがわかったのでしょう。そこで、パウロは本日の箇所の3節で「あなた方の信仰が大いに成長し」と記して、テサロニケ教会の信徒たちの信仰が大いに成長したことを、神様に感謝せずにはおれない気持ちになったのです。     (11月27日の説教より)