コリントの信徒への手紙二12:6-10

それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。                 (二コリント12:7)

きわめて特別な経験をしたことによって、自分が他の人よりも優れた伝道者であるという高慢な思い上がりが生じないように、神様によってパウロの体に「一つのとげ」が与えられました。おそらく、きわめて特別な経験をしたすぐ後に、「一つのとげ」が与えられたのでしょう。この「とげ」が何であったかについては、聖書の研究者によってさまざまな答えが提案されてきており、決定的な結論は出ていません。しかし、日本語の聖書で「わたしの身に」とか「わたしの体に」(聖書協会共同訳)とか「私は肉体に」(新改訳2017)と翻訳されていることからわかりますように、パウロの体に痛みを与える何かが与えられたということですから、おそらく何らかの病気であったのでしょう。パウロはその病気を「とげ」というあえて特定できない言い方で言い表しているのです。
考えさせられるのは、7節の後半に「それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と記されていることです。パウロは、「一つのとげが与えられました」と言うときに、だれによって与えられたのかを書いていません。しかし、聖書の研究者たちはこれを「神様によって与えられた」と解釈しています。これは、専門的な言葉では「神学的受動態」(theological passive)と言われる表現です。たとえば、神様が私たちに何かを与えてくださったときに「神様が〜を与えました」とは言わないで、「〜が与えられました」と言う言い方です。現代でもクリスチャンの人たちは、「神様」という言葉を使わないで「恵みが与えられました」「試練が与えられました」という言い方をします。それは実際には「神様によって恵みが与えられました」「神様によって試練が与えられました」ということを表しています。
すると、「とげ」を与えたのは神様であるのに、その「とげ」は「サタンから送られた使い」だと言うのです。これはどういうことでしょうか?ここで、聖書をよく読んでおられる方は、旧約聖書のヨブ記のことを思い出されるでしょう。ヨブ記には、とても正しい人であるヨブが神様によってさまざまな試練を与えられるという場面があります。ところが、その試練を与えることを提案するのはサタンであり、その試練を実行するのもサタンなのです。つまり、サタンは神様の許可に基づいて、正しい人であるヨブにさまざまな試練を与えているのです。それと同じように、神様はパウロの体に「とげ」を与えることをサタンに許可なさって、その許可に基づいて「サタンの使い」である「とげ」がパウロの体に与えられたということなのでしょう。
(10月30日の説教より)