渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。        (二コリント9:5)

「渋りながら」と翻訳されているプレオネクシアというギリシア語は、「自分の受け取り分以上を欲しがる状態」のことです。つまり、コリント教会の信徒たちが、神様にお献げするべき分をも自分の分にしようとしている状態のことです。これを、私たちが用いている新共同訳の聖書は「渋りながら」と翻訳しているのです。また、「惜しまず差し出したもの」と翻訳されているエウロギアというギリシア語は「祝福の行為やそれによって受ける益」を表しています。実は5節前半の「あなたがたが約束した贈り物」という箇所の「贈り物」と翻訳されている言葉も、同じエウロギアという言葉なのです。

考えてみますと、人の収入は神様からの祝福として与えられるものです。そして、自分の与えられた収入をほかの人たちのために使うのは、神様の祝福を分かち合う行為です。コリントは商業や交易で繁栄した町でしたから、コリント教会の信徒たちの中には裕福な人たちがいました。もちろん、裕福な人たちだけでなく貧しい人たちもいました。裕福な人たちは、収入という形で神様から与えられた祝福を、ほかの人にも分かち合う義務がありました。なぜなら、旧約聖書の族長アブラハムが神様によって祝福を与えられたときに「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世12:3)と言われたように、聖書の教えでは、祝福とは独り占めするものではなく、ほかの人と分かち合うものだからです。そのような神様からの祝福を分かち合うという考え方に基づいて、私たちが用いている新共同訳聖書は、祝福という意味のエウロギアという言葉を「惜しまず差し出したもの」と翻訳をしているのです。

このように考えてまいりますと、パウロの教えている考え方がはっきりしてきます。エルサレムの貧しい信徒たちを支援する献金は、神様からいただいた祝福を、自分だけのものにしないでほかの人と分かち合うという考え方に基づいているのです。そして、人の収入というものは、全部が自分のものではなくて、神様にお献げしてほかの人に使ってもらう分が含まれているという考え方です。

(5月1日の説教より)