コリントの信徒への手紙二8:10-12

進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。

                  (二コリント8:12)

これは、「自発的に献金するのであれば、献げる人の経済状態に応じたものであってよいのです。神様はそれを受け入れてくださいます」ということです。2節の「人に惜しまず施す豊かさ」について解き明かしをしたときに、「人に惜しまず施す豊かさ」とは2018年に出た新しい聖書の翻訳のように「溢れるばかりに豊かな真心」のことである、とお話しいたしました。そして、そのときに、福音書に記されているエルサレムの神殿でレプトン銅貨2枚を献げたやもめのこともお話しいたしました。レプトン銅貨2枚は金額からすればごくわずかです。しかし、キリストはこのやもめの献金について「だれよりもたくさん入れた」とおっしゃいました。そして、その理由を「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(マルコ12:44)と説明されました。「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」という言い方には、少し誇張があるかもしれません。しかし、キリストがおっしゃろうとしたのは、この貧しいやもめの献金には神様への献身の姿勢すなわち「真心」が込められているということであったのです。ですから、それは今日の聖書の箇所でパウロが記している「進んで行う気持があれば、持っているものに応じて、神に受け入れられる」ということとも共通しています。

人間のすべての活動は、経済的なシステムの中で行われます。教会のさまざまな活動も例外ではありません。新約聖書の時代の教会は、パウロなどの伝道者の伝道活動を支えるために献金をしました。また、ほかの教会の貧しい信徒たちを支援するためにも献金をしました。現代の教会も、自分の属する教会の牧師の伝道活動を支えるために献金をしますし、また、ほかの教会の活動を支えるためにも献金をします。したがって、教会と献金は切り離せません。そして、今日の聖書の箇所は、その献金について、忘れてはならない大切な原則を教えています。一つには「進んで行う気持」からするということです。もう一つは「持っているものに応じて」するということです。        (3月13日の説教より)