コリントの信徒への手紙二8:3-6

わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。           (二コリント8:3-4)

パウロはエルサレム教会の貧しい信徒たちを援助するための献金をコリント教会の信徒たちに呼びかけることにしました。そのことは、コリントの信徒への手紙一の16章1節から3節に書かれています。すると、マケドニア州のフィリピ、テサロニケ、ベレアなどの諸教会が、自分たちもその献金に参加したいと自発的に申し出てきました。それは、先週もお話しいたしましたように、マケドニアの諸教会の信徒たちも周囲の人々の迫害によって苦しみを受けていたので、エルサレム教会の信徒たちの苦しみが自分たちのことのように思えたからでしょう。4節の「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしい」とは、エルサレム教会の信徒たちを助けるための献金に参加させてほしいということです。

この箇所のギリシア語の原典の言葉を文字どおり翻訳しますと、「聖なる者たちへの奉仕の交わりと恵み」となります。私たちが用いている新共同訳聖書は、「交わり」を表すコイノーニアというギリシア語を「参加」と翻訳し、「恵み」を表すカリスというギリシア語を「慈善の業」と翻訳しているのではないかと思われます。ところが、2018年に日本聖書協会から出版された新しい翻訳の聖書では、この箇所が「聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたい」と翻訳されています。こちらの翻訳の方が、はるかに原典の意味をよく伝えています。なぜかと言いますと、エルサレム教会の信徒たちを助けるために献金をするということが奉仕であり、恵みであるということがはっきりするからです。パウロは1節で「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と書いています。その「恵み」とは、エルサレム教会の信徒たちを助けるために献金をするという奉仕に加わるという「恵み」です。自分が得をするという利己的な意味の「恵み」ではありません。ほかの信徒たちを助けるという「利他」の業に参加するという「恵み」です。ここに、「利他」の行いは自分から出るものではなく、神様から「恵み」として与えられるのだという大切な考え方が示されています。

(2月27日の説教より)