コリントの信徒への手紙二6:14-16

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。    (二コリント6:16)

「神の神殿」とは何でしょうか?神様を礼拝するための建物のことでしょうか?そうではありません。「神の神殿」とは、信仰の共同体である教会のことであり、クリスチャン一人一人のことなのです。それは、その次の「わたしたちは生ける神の神殿なのです」という文からわかります。この「わたしたち」とは、直接にはパウロとコリント教会の信徒たち
のことを指していますが、広い意味ではすべてのクリスチャ
ンのことであると言ってよいでしょう。パウロはコリントの信徒への手紙一の3章16節で「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と述べています。キリスト教会という共同体は「神の霊が自分たちの内に住んでいる」から「神の神殿」なのです。さらに、同じコリントの信徒への手紙一の6章19節で、パウロはみだらな行いを避けるように信徒たちに命じた後で
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と述べています。すなわち、クリスチャン一人一人の体が「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」であると言っているのです。
偶像という物体に神が宿っていると信じて、その物体を礼拝することが偶像礼拝です。それに対してキリスト教の信仰は、まことの神様は偶像という物体に宿っているのではなく、この世界を超越したところ、つまり天におられる方であると信じます。そして、天におられる目に見えない父なる神様の慈しみのご意思を私たち人間に示してくださったのが、神の子イエス・キリストであると信じます。さらに、父なる神様と神の子イエス・キリストのご意思を伝達してくださる聖霊が、教会という共同体とクリスチャン一人一人に宿ってくださると信じるのです。これがキリスト教の三位一体の神様を信じる信仰です。一年の初めに偶像を礼拝して後は自分の考えに従って生きるのと、一年365日聖霊なる神様を自分の中に受け入れて神様のご意思に従って生きるのと、どちらが本当に幸いな生き方でしょうか?どちらが思いがけない出来事に出会っても、それを受け止めて冷静に対応することのできる生き方でしょうか?どちらが困難な状況の中でも、忍耐して希望をもって生きることのできる生き方でしょうか?それはもちろん、聖霊なる神様を自分の中に受け入れて神様のご意思に従って生きる生き方の方です。なぜなら、「生ける神の神殿」という言葉からわかるように、聖霊によって私たちの中に宿ってくださる神様は、生きておられる方だからです。   (1月2日の説教より)