コリントの信徒への手紙二5:16-17

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。          (二コリント5:17)

「キリストと結ばれる人だれでも」というのは、わかりやすい翻訳だと思います。以前用いていた口語訳聖書では「だれでもキリストにあるならば」と翻訳されていました。2018年に日本聖書協会から出版された新しい翻訳の聖書でも、「誰でもキリストにあるなら」となっていて、古い翻訳が復活しています。「キリストにある」というのは、ギリシア語の原典のエン・クリストーという言葉を直訳的に翻訳した言い方です。これは、日本語としてはわかりにくいのですが、いろいろな意味をその中に込めることができます。もちろん、その中には今私たちが用いている新共同訳聖書の「キリストと結ばれる」という意味も込められています。一人の人間としてキリストを信じ、キリストによって救われ、キリストのために生きているということです。しかし、それだけでなくこの言葉には、キリストの体である教会の中にあるという意味も込められています。すなわち、キリストの教会の中で、キリストによって養われ、訓練され、奉仕しているということです。

 人はキリストを信じることによって古い生き方から新しい生き方へと変えられます。回心をしてキリスト教徒を迫害する生き方からキリストを宣べ伝える生き方へと変えられたパウロはその典型です。しかし、パウロの変化はただ個人的なことだけではありませんでした。パウロは、それまで所属していなかったキリスト教会の中に入りました。そして、アンティオキアの教会から派遣されて異邦人にキリストを宣べ伝える伝道旅行をし、異邦人の信徒たちの献金を集めて、迫害されて苦しんでいるエルサレムの教会の信徒たちを支えましたキリスト教会という共同体の中にあって生きる新しい歩みを始めたのでした。

キリストのために生きる人となり、キリスト教会という共同体の中にあって生きる人となるという変化は、神様が造り出してくださったものでした。新しく生きるようになったのはパウロですが、そのようにパウロを再生させてくださったのは神様でした。        (10月3日の説教より)