コリントの信徒への手紙二1:8-11

 

わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。   (二コリント1:9)

使徒言行録19章に記されているエフェソでの大きな迫害の経験は、今後パウロがキリストを宣べ伝え続けるならば、また同じようなことが起こりうるということを意味していました。それは、伝道者パウロにとってはまさしく「死の宣告を受けた思い」でした。しかし、そこでパウロは伝道をやめてしまうのではなく、キリストの福音の原点に立ち帰りました。すなわち、「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする」ようになったのです。
かつてパウロは、ユダヤ教のファリサイ派の教師として、旧約聖書の律法を守って生活しクリスチャンを激しく迫害していました。ところが、さらにクリスチャンを迫害するためにシリアのダマスコへ向かう途中で、天から語りかける復活のキリストの声を聞いて回心し、洗礼を受けてクリスチャンになりました。ですから、エフェソでの事件の前も、パウロは自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにして生きてきたはずなのです。ところが、エフェソでの事件を経験したことによって、パウロの信仰は一段と深められ、強められました。「死の宣告を受けた思い」を経験することによって、「死者を復活させてくださる神」こそが今もそして将来も頼りである、ということを確信したのでした。
注意深く聖書を読んでいると、「死者を復活させてくださった神」という過去形ではなく「死者を復活させてくださる神」という現在形で書かれていることに気づきます。これは、父なる神が十字架上で死んだイエス・キリストを復活させてくださっただけでなく、キリストのために死の苦しみを経験する者たちをも復活させてくださるということを意味しています。すなわち、第一に、クリスチャンが地上の人生において生きる力を失い死んだようになってしまう場合に、復活する力を与えてくださるということです。そして第二には、本当に死んでしまった場合でも終わりの日に永遠の命の体に復活させてくださるということでもあります。  (9月20日の説教より)