「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
   (ルカ24:39)

復活したキリストの体には肉や骨がありました。そして、それはもはや朽ちることのない肉や骨でした。しかも、その肉や骨にはキリストの特徴がはっきりと残っていたのです。すなわち、ヨハネによる福音書20章20節や27節を読むと、復活したキリストの体には十字架につけられたときの釘や槍の跡がはっきりと残っていたということが示されています。その釘や槍の跡からも、弟子たちは目の前にいる人物がまぎれもなく十字架にかかって復活したイエス・キリストであるということがわかったのでありました。
宗教改革者のカルヴァンは、復活によって個々人の個性、人格性が損なわれないということを、クリスチャンの体が「本質においては同じであり、性質としては別のものをもって復活する」(『キリスト教綱要』第3篇25章8)と解説しています。すなわち、一人の人格としての本質は同じであるが、もはや朽ちないものという別の性質をもって復活するというのであります。キリストも、神の子でありながら人となり人類の罪のために十字架につけられて死んだ、まさしくそのような方として復活なさったのでありました。すなわち、私たちのために死の苦しみを味わってくださった方が、私たちを死から解放してくださったのでありました。このように、死と復活の間には同じ人格が保たれているという連続性があります。しかしそれと同時に、かつて死んだ体とはまったく違う、もはや死ぬことのない体をもって復活しているという非連続性があります。この一見矛盾するかのように見える連続性と非連続性を同時に受け入れることが、キリストの復活とクリスチャンの体の復活ということを信じるための鍵となるのです。
               (4月21日の説教より)