すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(一コリント1:23-24)

 「十字架につけられたキリスト」(23節)は、まず「ユダヤ人にはつまずかせるもの」だと言われています。ユダヤ人にとって、キリストといえばイスラエルの国を復興するために現れる理想の王、救い主のことでした。キリスト(クリストス)はギリシア語で「油注がれた者」と言う意味で、旧約聖書のメシア(マーシーアッハ)に由来する言葉です。来るべき理想の王が十字架につけられ殺されるなどということは、あってはならないことでした。特にユダヤ人の考え方によれば「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」(申命21:23)でありましたから、メシアが十字架上で殺されるなどというのは言語道断のことでした。「つまずかせるもの」と訳されているスカンダロンというギリシア語は、英語のscandal(スキャンダル)という言葉の元になった言葉で、英語の聖書の中には、これを罪や侮辱を意味する“offence”(REB)と訳しているものもあります。ですから、「十字架につけられたキリスト」という観念自体が、ユダヤ人にとってはスキャンダルであり、神を侮辱するような赦しがたいものであったということです。
 次に「十字架につけられたキリスト」は「異邦人には愚かなもの」だと言われています。ローマ帝国の法では、十字架刑は反逆罪などの重罪や奴隷の処刑の場合に適用される最も残酷な死刑の方法でした。そして、ローマ帝国の市民権を持つ者を十字架刑で処刑してはならないこととされておりました。そのような十字架刑のイメージを思い浮かべますと、キリストが私たちのために十字架上で死に、そのキリストを信じるならば罪赦されるなどというのは、当時のローマ帝国の一般の人々にとっては「愚かなもの」以外の何ものでもなかったでしょう。今日でも十字架による贖罪ということを聞きますと、多くの人々は、私には償ってもらわなければならないような罪はないし、ましてやイエス・キリストなどという見ず知らずの人が十字架について私の罪を償ったなどというのはばかげたことだ、と思うでしょう。「異邦人には愚かなもの」というのは、そのまま現代の多くの人々がキリストの十字架について受ける印象であると言ってよいと思います。(8月20日の説教より)