聖書のことば テサロニケの信徒への手紙二3:14-15

もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。

 「かかわりを持つ」と訳されている原典のギリシア語は、「交際する」とも訳される言葉です。実際、教会の中で性的な不品行を行っていた人がいたコリント教会への手紙の中で、パウロは同じ言葉を用いて「みだらな者と交際してはいけない」(一コリント5:9)と命じています。そして、その意味を詳しく解説して、「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪うものがいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな」と記しています。ここで「兄弟と呼ばれる人」とは教会の信徒のことで、「つきあうな」と訳されているのが、本日の箇所では「かかわりを持たないように」と訳されている言葉です。そして、「一緒に食事もするな」というのは、まず主の食卓を共にするな、すなわち聖餐式を共にしてはならない、という意味であったのでしょう。そうしますと、テサロニケの信徒たちに対して、この手紙の命令に従わない者には「かかわりを持たないようにしなさい」というときにも、聖餐式を共にしてはならないということが含まれていたのでありましょう。宗教改革者のカルヴァンも、テサロニケの信徒への手紙のこの箇所を、聖餐の停止を命じているものと理解しています(『キリスト教綱要』4篇12章5)。

 教会が問題のある信徒に対する聖餐を停止することを、陪餐停止の戒規と言います。この戒規という手段が、教会の訓練を担保する機能を果たしているのであります。すなわち、信徒が福音により与えられた自由を濫用して、クリスチャンにあるまじき行いを繰り返しそこから離れようとしないときに、教会はその信徒の陪餐を停止して、公に悔い改めを求めるのであります。カルヴァンによれば戒規の目的は、第一にキリストの体と御名が汚されないためであり、第二に善良な人々が堕落することがないためであり、第三に不品行な人々が自らの罪に気づき悔い改めるためであります。   (5月28日の説教より