コリントの信徒への手紙二6:3-7a

わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。            (二コリント6:3-4a)

「この奉仕の務め」というのは、「神と和解させていただきなさい」というメッセージを語る「キリストの使者の務め」です。そして、「使者」というのは、天地万物の王であるキリストから権威を与えられて「大使」として派遣された人のことですから、重い責任を負っています。キリストから派遣された人は、「大使」という重い務めが「非難されないように」気をつけなければならないのです。

パウロが「神と和解させていただきなさい」と宣べ伝えることができるのは、キリストが十字架について人類の罪の贖いをしてくださったからです。すなわち、5章21節にあるように「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」ということが「神と和解させていただきなさい」と宣べ伝えることのできる確かな根拠です。キリストが私たちの代わりに罪人として死んでくださったことによって、罪人である私たちが神様の前で正しいと認められるようになりました。だからこそ、私たちは神様と和解することができるのです。したがって、「キリストの使者の務め」はキリストの十字架を宣べ伝える務めです。

それでは、キリストの十字架とはどういうものでしょうか?パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と言って、「十字架につけられたキリスト」は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると述べています(一コリント1:23)。すなわち、ユダヤ人から見れば「十字架につけられたキリスト」は神様に呪われた「つまずかせるもの」ですし、ユダヤ人以外の人々にとっては人の罪を身代わりに負う「愚かなもの」です。ですから、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるパウロもまた「つまずかせるもの」「愚かなもの」とみなされるのは避けがたいことです。しかし、十字架につけられたキリスト以外の理由で、「キリストの使者の務め」が非難されることのないように、パウロは細心の注意を払っていたのでした。

2018年に日本聖書協会から出版された新しい翻訳の聖書は、「どんな事にも人に罪の機会を与えず」という箇所を「どんなことにも人につまずきを与えず」と翻訳しています。つまり、「罪の機会を与えず」というのは「つまずきを与えず」という意味です。ところが、先ほどもお話しいたしましたように、キリストが十字架上で私たちの代わりに死んだというメッセージ自体が、それを聞く人につまずきを与えたり、愚かなことと思わせたりするものです。ですから、キリストの十字架のメッセージにつまずくのであれば、それは仕方のないことなのです。しかし、キリストの十字架がつまずきをあたえるものであるからこそ、キリストの十字架以外のことでつまずきを与えるということのないように、パウロは細心の注意を払っていたのでした。          (10月31日の説教より)