私たちの教会では、夏に、若い方たちに聖書のメッセージをお伝えする「青年伝道礼拝」を行っています。2015年7月19日の説教からです。
また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 (二テモテ3:15)
聖書とはどのような書物であるかということが、この箇所にははっきりと記されています。電話帳は電話番号を、広辞苑は日本語を、六法全書は法律を教えてくれます。それでは、聖書は何を与えてくれるのでしょうか。「救いに導く知恵」を与えてくれるのであります。
知恵にもいろいろあります。お金を儲ける知恵、出世するための知恵、人間関係を円滑にするための知恵などがあります。聖書に記されているのは、「救いに導く知恵」です。たくさんのお金を儲けて、身を滅ぼす人がいます。出世して行き詰まったあげく、自殺をする人がいます。多くの友人をもちつつ、実は孤独な人がいます。ですから、これらのことは人間にとってそれなりに望ましいことではありますが、本当に大切な「救い」そのものではありません。 それでは、「救い」とは何でしょうか。新約聖書のギリシア語、旧約聖書のヘブライ語にさかのぼってその意味を調べてみますと、「救い」とは「解放」であるということがわかります。イエス・キリストの「イエス」はヘブライ語のヨシュア(「主は救い」の意味)という名前にさかのぼります。そして、救いを意味する「ヤーシャー」というヘブライ語は、もともと「広くする」という意味であったと考えられています。そこで、「救い」とは、私たち人間を狭くしているもの、閉じ込めているものからの「解放」であると言うことができます。私たち人間を狭くして閉じ込めているものとは、何でしょうか。それは、「律法」であり、「罪」であり、「死」なのです。聖書は、それらのものからの解放へと導く知恵を私たちに与えてくれるのです。 (7月19日の説教より)